スイスの禅寺

犬は泥玉を追い、虎は投げる者を掴む

禅 人の説く清浄な心こそを要とし、入るべき門の無いのを法門とするのである。さて、その門をいかにして通過すべきであるか?「門を通って入ってきたようなも のは家の宝とはいえないし、縁によって出来たものは始めと終わりがあって、成ったり壊れたりする」というではないか。その話にしても、風も無いのに波を起 したり、綺麗な肌に傷を抉るようなものである。まして言葉尻に乗って何かを会得しようとすることなど、もってのほかであろう。棒を振り回して空の月を打と うとしたり、靴の上から痒みを掻くようなことで、どうして真実なるものと交わることができよう。もし本気で取り組もうと決意した者ならば、命を惜しむこと なく飛び込んでくることであろう。(本気はセーフ!)その時は鬼王でさえ彼を遮ることは出来ない。聖人たちでさえ命乞いするばかりだ。しかし、もし少しでも躊躇するならば、まるで窓越しに走馬を見るように、瞬きの間に真実はすれ違い去ってしまうであろう。(半端者はアウト!)

大道に門は無い、千の路がある。関を通過して、あとは天下の一人旅。

無門関